孤島の鬼

日々の備忘録。文章表現、感情表現の練習の場です。更新はなるべく毎日・・・

俺はこの先、いったいどうなりたいのか。

そのゴールは人によって違うと思う。なので自分自身で見つけ出すしかない。というのは非常に当たり前のことである。しかし、自分たちはよく、最適なゴール、幸せがあると思い込んでしまう。それが失敗のもとである。人と比べることにつながってしまう。自分の喜びなんてものは自分がそう感じるだけでいいのだ。それを否定してくる人たちとは縁を切ってしまえばいい。そして、それだけに限らず、自分の価値観が会う人とだけ一緒にいればいいのだ。自分の価値観が合う人と一緒にいるためには、自分の価値観を明確にしておかなければならない。そうして一番初めの問いに戻るのだが、自分はいったい何をしたいのか、案外自分がよくわかっていない。これをはっきりさせていくためには、自分が今週どう過ごして、どういった時が楽しかったのか、書き出すことが有効だ。そのためには日々の日記をつけることが有効だし、その時々にどう感じたかを書き留めておくことが重要である。そうして自分はどうしたら、どうしているのが楽しいのか、幸せを感じるのか、明文化しておくことが重要である。言葉にできること、文章にできることはとても重要である。人は内面が見えないからである。当然なのだ。でも私たちはその当然を忘れてしまいがちなのだ。どうしても理解してもらえるだろう、わかってもらえるだろう、という意識がある。日本というハイコンテクストな社会に生きていると、そういった場面が多い。それが社会を生きにくくしている要因だと私は思うのだが、わかってもらえる、普通はそうだろう、当然そうなるだろう、という期待は幸せに生きていく上でとても危険な考え方だ。人に対して、こうしてもらえることが当然、という意識がそこには潜んでいるからだ。人から何かをしてもらえることはこれまた当然ながら当たり前のことではないのだ。それは親と子という関係においても同様である。親なんだから、子に対してこうしなければいけない、子は親に対してこうしなければいけない、というのは全て幻想である。大きな方向性や歴史的にこうするのが一般的、ということはあるのだろうが、それはあくまで傾向であり、それが正解ということではない。傾向は正解を導くための指針にしかならない。これが全ての場合正解になるかというと決してそうではない。私たちはそれを決して忘れてはいけない。その時々で正解は変わるし、正解なんてものはそもそもないのかもしれない。私たちが選んだ選択肢が正解になるし、それを正解にしていく努力を選択のあとはしていかなければならない。選択のあとの行動こそが重要であり、決断なんてものは一定の価値があるものの、決断しただけでは何も変わらない。決断して以降の行動こそがその人の価値を、生き方を決めていくのだ。行動で示していく人生とするしかない。例えば文章で飯を食っていきたいのなら文章を書かなければならない、よき父としてありたいのであれば、よき父として振舞わなければならない。俺はそういう風に生きていたい。