孤島の鬼

日々の備忘録。文章表現、感情表現の練習の場です。更新はなるべく毎日・・・

見返りを求めない

外に見返りを求めるから、思ったとおりの反応がないと怒りの感情がわいてくる。他人に対して、期待をしてはだめだ。他人は自分とは違うのだから、良かれと思ってしてくれていることも、自分にとっては不快なこともあり得る。そんな不安定なものに、自分の感情を左右されないようにしない。そうするためにはそもそも他人に何かしたら、何か帰ってくるはず、という期待を捨てなければならない。

しかし世の中には返報性の法則といって、何かをしたらされた相手はした相手に対して何かし返さないといけない、と思ってしまう法則もある。だからと言って、これを期待してはいけないのだ。それは不幸の始まりである。すべての行動の基準は自分が快的か不快か。あとはそれの伝え方だけ。自分がいいと思ったことをきちんとしていくだけでいいと思う。あとはがっかりされようが、どう思われようが知ったこっちゃない。そもそもが分かり合えない、理解しあえないのが人間なので、そんな期待をすることはできない。もともと心のつながりは持てないということをわかっていたはず。物質的な満足を求めて今の現状があるのだから、精神的なつながりまで求めるのはお門違いである。それが少し満たされてくると、そのことを忘れてさらにさらにと求めるのだから、性質が悪い。自分が悪いのだ。すべての行動の結果、相手の反応の結果の責任は自分にある。自分の行動、発言が相手の行動、発言を引き出しているのだ。そう考えると自分がこの世界を形作っているだけ。自分の行動ですべてが変えられる。悲観することは何一つない。自分がやりたいようにやって、家族、人間関係が問題ないように動けばいいだけだ。自分でコントロールして人生を導いていくしかない。人に対して、これを変わってほしいだの、それは嫁相手でも相手に対して変化を求めるのは傲慢だ。こうしてほしいと伝えるというのはもちろん一つの改善策としてあり得るのだろうが、それで変わらなければ変わらなかった者のせい、とするのはいけない。自分が次の一手を考えればよいのだ。試行錯誤を積み重ねて、変化を継続させ続ければ、満足することもできるだろう。安寧の地はない。日々精進である。

連休最終日

今回の連休は家族サービスをテーマに与えて与えて与えまくるのだ、それこそが自身の幸せ!ということでガンガンに奉仕した。いやあ、皮肉に聞こえるかもしれないけど、一旦そう決めて、半分プレイで家族に接すると、みんな優しさを返してくれて嬉しい。子供なんかはまだわがまましたい盛りだから、いろいろトラブルはあるけど、親父が心穏やかに、なんだか優しいとそれだけで懸念事項が減るのか、いつもよりリラックスしている感じ?楽しそうだし安心感があるのか、いつもよりやや機嫌が良かったような気がする。娘の機嫌がいいと、自分も機嫌良くなる。良いスパイラルだ。嫁もこれを見て心なしか機嫌が良いように思う。嫁はこのスパイラルの輪から離れた存在、ってなんでやねん。なんでこれだけ尽くして尽くして、おめえはそんな感じなんだよ!って思わなくもないが、まあもうこればっかりは。そういう気持ちで人に奉仕するな、見返りを求めるな、なんてことをよく言いますので自分もそれに則って、見返りなんて求めませんよ。与えて与えて与えつくせば良い。だって自分なんか、結局ないんだもの。

みうらじゅんの『さよなら私』を読んで、結局自分なんてないことを再認識した。自分なんてものはそもそもないのに、これまでの蓄積で自分が成り立っていると思い込んでしまう。蓄積で成り立っている部分なんて、意味がない。今どうするかだけ。これだけ与えても見返りがない、なんてことは過去を覚えているから。過去なんて一切は過ぎ去ったもので、その瞬間瞬間にみんなの笑顔が観れただけで、それだけでいいじゃないか。嫁も笑顔を見せてくれているのです。愛した女が笑ってくれている、それだけでいいじゃないですか。信じられるのはその一瞬だけで、十分じゃあないですか。そんなことを考えながら連休最終日。娘をプールに入れたり、お昼寝したりしているうちに1日が終わりそう。そんな1日って、最高じゃないですか。

気遣いは行動でしか示せない。2

というわけで、前回は今の私の職場の状況を書き連ねたわけだが、端的に言うと長のサポートを行う平の動きが悪く、負担が長に集まっているという状況。平はこの4月にうちの部署にきたので当初は遠慮などもあったのだろうが、もうじき半年、そろそろ自分で判断して、できるところまではやらないといけない、と長と私は思っているところ。自分ができるところはどこまでか、それ以上は役職上位者でないとできないことがわかっていないことが問題だと思う。権限を明確にしていないというのが我々の問題点でもあると思うのだが、我々が担当するのは突発対応や接遇メインのところなので権限をどうこう、という話でもない。そのレベルまで至っていないのだ。例えばお茶汲みにしても、その時間に出す、という指示を出した場合、そのあとの業務を逆算して、じゃあ今のうちに湯飲みなど準備しておかないと、ばたばたしてしまう、というのが頭を使っていればわかるはずなのだが、全てを点でとらえているために、一つずつ対応することになってむだが非常に多い。

おそらく平にも言い分があって、必要な情報が与えられていない、ということを言いたいのだと思う。でも、私も長も、仕事を円滑に行えるレベルの情報は与えられているし、自分の仕事を全うするために足りない情報があるなら、そのままにしていないで自分で取りに行かないといけない。その意識が足りない。そう、全般的に他人事なのだ。自分の業務に必要な情報は放っておいても集まってくる、そんな風に思っているのだろう。今までの仕事でそういったものしか担当していなかったことが原因だと思う。もちろんそういった業務を担当してても常に頭を使おうとしている人はそんなことにはならないと思うのだが。とにかくそういった頭を使う訓練ができていない。そういった話を長としていたのだが、どれだけ頭のいい、素質を持っていても使わないと頭は悪くなっちゃう、ということを示唆しているように思う。必要以上に失敗に怯えていることも問題だと思う。失敗しないような業務。失敗が減点になるような業務、定型業務しかやってこなかった、そして世の中に定型業務と非定型業務がある、ということに対して無自覚だったのだろう。定型業務のさばきが上手いだけで、仕事ができると思っているのであれば残念だと思う。これをどう使えるようにしていくのか。個人的にはぬるい考えは厳しい環境におかれないと緩いということ自体に気がつかないので、ぽーんとそういった環境に放り込むのも一つではないだろうか。潰れるかもしれないけど。

気遣いは行動でしか表わせない

他人に対する気遣いは、つまるところ行動でしか示せません。ということがはっきりとわかる話があったので聞いてくれ。

今の職場は3人体制で、長、主任、平という役職。自分は主任ポストで、長のサポートは小、自分が抱えている業務のボリュームが大、長は自分の抱えている業務大、平は庁のサポート大、その他雑件という業務分担。ざっくり言うとこんな感じ。

で、長がつぶれそう。というのも平の動きが悪いから。なんでも確認を求める、例えば長の業務は多くの場合外出が伴うので、その間の業務の処理、さばきはこれまで平が行ってきていたのだが、外出先にまで電話をして、確認をしてくる。そのせいで長のパフォーマンスが落ちてしまう。要は平がサポート業務を自分で完結できないのだ。

サポート業務の多くは通常であれば非常勤でもさばけるようなものであるが、最終的な決定ができることが平と言えども常勤である者の役割だと思う。そういう意味では自分の与えられた役割を理解していない。能力が低いわけでは決してないのだ。それは平が卒業した大学からもわかるし、単純作業の処理スピードは若さもあるのだろうが目を見張るものがある。しかし、平がいつまでもその仕事の仕方をしている限り、部下を任せることはできないだろう。

どう表現すれば適切なのか、悩むところではあるが、優しすぎる、気遣いすぎているため、なんでも長に確認しないといけないと思っている。ポジション的に平でも重たい結果につながる業務ではあるので、常に責任は付きまとうが、その責任を自分で背負うところがない。話を聞いている限りは長のことを気遣っている。性格的にもずるしそうなタイプには見えないのだが、当然そこは君がサポートすべきところだろう、というところをやっていない。例えば文書の軽微な修正が指摘された場合、それが長の外出中だったり、別対応中で手が空いていたら、対応するのがサポートの役割だと思うのだが。

現状はこんなところ。次回はこういった状況で、では主任の自分はどう動くか、これを考えていきたい。

俺はこの先、いったいどうなりたいのか。

そのゴールは人によって違うと思う。なので自分自身で見つけ出すしかない。というのは非常に当たり前のことである。しかし、自分たちはよく、最適なゴール、幸せがあると思い込んでしまう。それが失敗のもとである。人と比べることにつながってしまう。自分の喜びなんてものは自分がそう感じるだけでいいのだ。それを否定してくる人たちとは縁を切ってしまえばいい。そして、それだけに限らず、自分の価値観が会う人とだけ一緒にいればいいのだ。自分の価値観が合う人と一緒にいるためには、自分の価値観を明確にしておかなければならない。そうして一番初めの問いに戻るのだが、自分はいったい何をしたいのか、案外自分がよくわかっていない。これをはっきりさせていくためには、自分が今週どう過ごして、どういった時が楽しかったのか、書き出すことが有効だ。そのためには日々の日記をつけることが有効だし、その時々にどう感じたかを書き留めておくことが重要である。そうして自分はどうしたら、どうしているのが楽しいのか、幸せを感じるのか、明文化しておくことが重要である。言葉にできること、文章にできることはとても重要である。人は内面が見えないからである。当然なのだ。でも私たちはその当然を忘れてしまいがちなのだ。どうしても理解してもらえるだろう、わかってもらえるだろう、という意識がある。日本というハイコンテクストな社会に生きていると、そういった場面が多い。それが社会を生きにくくしている要因だと私は思うのだが、わかってもらえる、普通はそうだろう、当然そうなるだろう、という期待は幸せに生きていく上でとても危険な考え方だ。人に対して、こうしてもらえることが当然、という意識がそこには潜んでいるからだ。人から何かをしてもらえることはこれまた当然ながら当たり前のことではないのだ。それは親と子という関係においても同様である。親なんだから、子に対してこうしなければいけない、子は親に対してこうしなければいけない、というのは全て幻想である。大きな方向性や歴史的にこうするのが一般的、ということはあるのだろうが、それはあくまで傾向であり、それが正解ということではない。傾向は正解を導くための指針にしかならない。これが全ての場合正解になるかというと決してそうではない。私たちはそれを決して忘れてはいけない。その時々で正解は変わるし、正解なんてものはそもそもないのかもしれない。私たちが選んだ選択肢が正解になるし、それを正解にしていく努力を選択のあとはしていかなければならない。選択のあとの行動こそが重要であり、決断なんてものは一定の価値があるものの、決断しただけでは何も変わらない。決断して以降の行動こそがその人の価値を、生き方を決めていくのだ。行動で示していく人生とするしかない。例えば文章で飯を食っていきたいのなら文章を書かなければならない、よき父としてありたいのであれば、よき父として振舞わなければならない。俺はそういう風に生きていたい。

頭よくなりたい。

頭が良くなるとはどういうことか。自分は、実は20歳ぐらいから5年程度、ある特定の人物としか話さなくなり、それはその人1名ぐらいが中心だったので、ほぼ引きこもりだった。そんな生活が続いてしまったがために、その後仕事を始めてからも頭にもやがかかったようで、どうしたらいいのか、よくわからないままだった。当初は仕事に慣れていないことが原因かも、引き続き精進すべし、と思っていたのだが、どうもそういうわけではないようで、人とあまり会話をしなかったことで、脳みそが退化してしまっていたのだと思う。今でも眠気などで頭が回っていないと、文章を読んでも頭に入ってこないし、長時間労働が向いていないからだだ。それはやっぱり高校受験もせず、大学に入ってからあまり人とかかわることもせず、無頼を気取って酒を飲み続けていたから、どうやら脳が委縮してしまったのだと思う。ちょうど中島らもとかすきだったから、アルコールを摂取しながら本ばかり読んでた。本ばかり読んでいたというと、頭よくなってもいいもんだけど、結局読んでいたのはエンタメ小説やエッセイとかだったので、まあその時は楽しいんだけど、何か今それがプラスになっているのか、と問われると疑問が残るような本ばかりだった。見事にモラトリアムのまま過ごした。しかも普通の大学生が3年途中から就職活動でひいひい、現実に戻っている中、自分はだらだらと5年も、ほぼ無為に過ごしてしまった。この時の差が今の自分の能力の低さにつながっているのだろう。ある程度仕事で評価されているようにも感じるが、どうも自分が思っているほどの評価ではない。だいたい、多くの人が自分のことを過大評価するらしいので、自分もその御多分に漏れず、なんだろう。仕事で文章を作成するときも、構成を考えてから一気に書くが、気分が乗らないと書けないといった、どうも気分の波、好調の波に左右される部分が大きい。自分は夜が弱いので、残業とかもなるべくしたくない、しても効率が落ちてしまうので勘弁願いたいのだが、残って仕事をしている人が評価されているようにも思える。どうしていけばよいのだろうか。とりあえず、モノの本には瞑想がいいよ!見たいに書いているが、スピリチュアルなのはちょっとなあ。うーむ。

禁酒とおな禁

二つも欲を抑えているのですよ!というのも自分が好きなライフハック術の中でこの二つが紹介されていたから。前々からどちらも効果あるだろうなあ、とは思っていた。単純にそれをする時間が減るので。しかし頻度問題だとも思っていたのだが、どちらも歯止めなくなる瞬間、期間があって、スパッとやめてみた。まだ1週間もたってないが、寝覚めはよくなったように思う。後者は年齢的なこともあって、それほどの頻度だったわけではないが、ついでにやめてみた。どちらも時間がかかってしまうので。

お酒に関しては順調にやめられそう。ただ、付き合いを円滑にする部分もあるので、人から誘われたときは飲んでよし、というルールにしている。自分一人で晩酌、というのもいいけど、少なくとも1月はやめようと思っている。こちらはなんだかんだで順調。炭酸水という代替物があるし、いざとなったらノンアルコールビールでごまかすこともできる。ノンアルコールビールがまだまだまずくて、一杯飲んだらもういいわ、、、となるのも、禁酒にはちょうど良い。この調子で飲まずに済むようにしていきたいと思う。1か月後に頻度を落とすのか、付き合いでしか飲まなくするのかは要検討。とりあえず一生のまない!としてしまうとハードルが高くなるので緩いペースで続けていきたい。

前置きが長くなったが、つらいのが、後者。意識していなかったときはそれほどでもなかったのだが、意識してしまうとどうもむらむらしてしまう。直接的なサイトに行ってしまうとアウトだと思うので、お気に入りから速攻削除したのだが、気が付くとyoutubeでも何となくそれっぽいのを検索してみ始めようとする自分がいる。さあ、どうなるのか、いざとなったらすりゃいいんだけど、もう少しだけ運動するなりして代替してみよう。今はとりあえずしたくなったら懸垂を10回するようにしているが、いつまで続くことやら。これも禁酒に合わせてまずは1月をめどに進めてみようと思う。