孤島の鬼

日々の備忘録。文章表現、感情表現の練習の場です。更新はなるべく毎日・・・

やっぱりとろくさいんじゃん。

ある仕事を引き継いで、会計的な部分で必要書類が例えば5つあって、これが全部そろわないと発注できないルールです、と告げられたのだが、それをそろえるとなると発注相手が限られてしまうので、不便だなあ、なんとかならないの?という話を前担当者に話したら、はっきりと「それはできません」と断言されてしまった。はあはあ、まあそういうもんかなあ、と思いながら作業を進めていると、どうしてもその発注案件がネック、効率が非常に悪いことが気になってしまい、いいや、本部に聞いてみようと思い立ってきくと、いいよー、もんだいありません、手続き方法お教えしますねーとのこと。なんだよそれ。前任者よ。前回記事で粗が気になる、という話をしたのだが、こういうところなんだよ。昔は確かにそういうルールだったのかもしれないが、今これだけ世の中が便利になってきているのに、ルールに縛られているということでその便利さを享受できないなんて、いやすぎませんか?損じゃないですか。それで業務スピード、負担が格段に減ったので、気持ちがいい週末を送れているわけなんですが、どうもやっぱりできない!と断言した前任者のことが気になる、もやもやするわけですよ。どういうつもりで言ったんだろうか。なぜ自分が決めたルールでもないのに、ルールは絶対と思い込めるのだろうか。それはもう本当に一言で言ってしまえば頭を使っていない、ということに尽きると思います。前任者もかわいそうな状況ではある。私の見立てでは、処理スピード以上の案件が入ってくるポジションに座ってしまっている。もちろんそういったポジションは評価されているから座れるわけだが、前任者が評価されている部分は、体力的な部分、根性で今までやってきていて、まじめだから、コツコツやっているからというところだと推測している。それが、今のポジションでは通用していない。圧倒的なボリュームの前に、言われたことだけコツコツとやるタイプでは対応しきれていないのだ。人を使えない、自分でやってしまうというところも災いしているように思う。またルールを疑わないところも裏目に出ている。

今の役職ではよいのだろうが、もう少し抽象度が上がった案件にはおそらく対応できないのではないかとみている。まあ人のことばっかりで自分はどうなんだと反省しつつ、前任者を反面教師として効率よく仕事をしていきたいものだ。

チームで働いている以上、自分の仕事をクオリティ高く、早くこなすことは責務だと思っている。自分の仕事に責任をもって、ということは非常に大事だが、それで仕事を抱えすぎてしまうと、チームとしてはマイナスである。常に自分だけでなく、チームのために貢献できるような状態に自分を置いておかなければならない。一方チームとしての重要案件を重視しすぎると自分の時間が無くなってしまうのでこのバランスが難しいのだろうが、世の中何でもバランス。それは中庸ということではなく、針の振れでいうと振り切り振り切りを繰り返しながら前に進めるイメージ。振り切るのでもちろんコミュニケーションをとって、どういう状態か、共有してくことが必要である。最後は抽象度が高くなってしまったが、そんな風に思った週末。

言うは易く行うは難し

ということで、人の業務の粗ばかり気になる。どうしてそんなに遅いのか、どうしてスピード感を持てないのか、なんでそんなやり方になるのか。周りから見ていると批判的になるのだが、自分がいざ当事者になるとなかなかわからないものである。一定程度距離を保つと色々なことが見えてくる。自分を客観的にみるためには、一度自分を自分ではなく、他社の目線で見てみることが大事だ。人は往々にして、自分のことはよい風に見ている。自己評価が高いものらしい。それで前向きになって物事が前に進むのであれば、そういった認識もプラスには働くのだろうが、現実はどうだろうか。おごり高ぶり人を馬鹿にする。バカにされたほうはたまったものではない。安い給料でバカにまでされる。そんな仕事をやりたいと思うほうがバカだ。かくしてバカしかいない職場になるし、おごり高ぶるものはますます図に乗ってしまう。さりとておごれるものも久しからず。そんなやり方では成長が止まってしまい、ある時には抜かれ去ってしまうだろう。そうして抜いていったものはある程度まで努力するのだろうが、自分の能力に自信を持っているため、この人もまたおごり高ぶるルートへ進んでいってしまう。このループが延々と続いている組織は、言うまでもなくだめだ。とにかく謙虚、謙虚、謙虚の引き倒しで行かなければならない。本当に優秀であれば、むやみに敵を作らないことのほうが得策であることは言うまでもないし、自分能力をひけらかすようなことはしないだろう。能ある鷹は爪を隠すの故事に倣うまでもなく、自然とそういった行動をしているものである。能力を高めにアピールするのは、自信がないもの、ない能力をあるように見せかけるフェイク、まがい物だけである。まがい物にはまがい物なりの矜持があるだろうが、ここではあえて触れない。努力をし続けたものだけが本物になるように、まがい物にも努力が必要である。いや、本物とまがい物の違いなんてものは、あきらめない限りは生まれないのだ。

 

今後の自分の学習計画

早起きして業務関係の資料、業務というよりも自己研鑽に近いが、その資料を朝読んでいた。秘書業務に係るもので、その仕事を情報管理業務、庶務業務、接遇業務の3つに大別して語る論文だ。100ページ近いもので少々読むのに時間は係るが、実践的な内容の、さらに概要をつかむためには前半だけで十分。後半は西洋と日本の秘書の歴史的存在形態や、秘書業務の変遷についてかかれているので、今まさに秘書に携わるものにとっては前半だけで十分ということだ。

さてこれを読み進めていくうちにブレーン的秘書というものがどういったものかを明らかにしていくのが論文の趣旨だったかと思うが、そういう意味ではこのブレーン的秘書が何をさすのかはあまりわからなかった。先ほど述べた3つの項目を高いレベルでこなすだけでは補佐的秘書で止まるように思う。さらに上のレベルをもとめるのならば、自らが企画提案できる機能、一般的な秘書の能力を向上させるとともに、専門性にもとずいた自分の強みをプラスアルファしていかなければいけないと思う。

秘書業務自体に専門性がないわけではないが、トップの資質との組み合わせという部分もあるし、秘書の有能、無能でトップの能力が変わってくるか、というところは、そこに影響が出るほどの秘書というのは少ないと思う。かなり有能な秘書であっても、それは秘書という業務の本質はトップのサポート、それもメンタル的な部分に踏み込むとするならば、秘書の手柄というのは陰日向に咲くものであり、あの秘書が有能である、というようなやり方は逆説的に秘書らしくないのではないか、と思う次第だ。時々、秘書経験者のインタビューなどを読むと、そういった自負が滲み出ていて、少々げんなりする部分もある。このあたりは判断が難しいのだろうが。

さて自分の場合でいうと、秘書の基本的な能力の担保のため、秘書検定2級は取得したのでこれをさらに磨くべく1級取得を目指したい。加えてそこから派生する英語能力と、自身の強みであるITへの強みを形に残すべくまずはITパスなどの簡単な資格の取得を目指そうと思う。

効率化と感情の行方

職場で退職される上司(と言っても大先輩すぎてあまり関わりもなかったのだが。)の仕事に関する覚書のようなものを読んで感銘を受けた。記録としてここに残しておきたい。

まずは仮説を持つこと。これは仮説思考という単語ですでに一般化されているような概念だ。課題に対して原因がはっきりしている場合はほとんどない。原因がはっきりしている場合には打ち手がある。ややこしい課題は原因がわからないからこそだ。これを特定することはできない。だからこそ問題となっている。そこでどうするのか。仮説を立てるのだ。仮説を実行させていく中で出てきた結果をフィードバックしつつ真因に近づいていくというイメージ。いきなり回答ど真ん中を射ぬくことは少ないのだろうが、経験を積めば限りなく答えに近づくことができる。

また、答えが一つである、という発想も危険である。あらゆる問題に関しては100点の回答はまずないと考えてよい。どの解決策を用いたとしてもどこか違った面での問題点が出てくる。リスク、コスト、時間など。これらを全て充した100点の答えなんて、ありえないということがわかるだろう。資金がたくさんあれば様々な解決策を打つことは容易に想像できるが、またそれが本当に解決に向かっているのかは検証が必要である。80点の答えが複数浮かんだのであれば、あとはどれが具体的にチームで行えるのか、人を見ていかなければならない。自分を含めてどういった個性が集まっているのか。緻密な戦略を着実に実行できるチームなのか。メンバーとの兼ね合いで戦略を見直す必要があるし、戦略がメンバーを育てるという側面もある。

未知の業務はそれだけで、誰にとっても怖いものだ。しかし誰にとっても怖いものであるのであれば、それを実行した人とそうしなかった人との違いはあくまでも取り組んでみたかそうでないか、ということでしたかない。怖くても取り組むしかない。それだけが違いを生んでいるのだ。

続きはまた明日。

 

僕のことを手放しで認めてくれる人

家族の話。うちの父は僕が何かすると、必ずその道のプロを目指したらどうだ。と進めてくれる人だった。例えば小学校の時にアナウンス部に入ったという話をしたら、アナウンサーになったらどうだ。児童会に入ったら政治家になったらどうだ。小さい頃は思いつきで話しているような父の言葉にイラついたりしたものだ。そんな簡単にプロになれるはずないだろう、少し上手なぐらいでプロになれるはずないだろうと、思っていた。そんな経験がプロに通用するはずはないだろう、思いつきで話さないでほしい、なんてことを思っていた。それは僕が成長して、中学生、高校生になる時、また社会人になるときにもそんな話をしていた。社会人になる時には、自分で選んだ道があったので、そんな時に他の道を示す父にこれまたイラついたりした。これからはこの道に専念しないといけないのに、いつまでもフラフラしてられないよ、と。そうこうしているうちに僕も30代半ばをすぎて、将来なにになる、とか、どういったことに才能があるだのといった話は当然なくなってくる。もうすでにこの人はこういった人であって、それ以外の何かになるという話は随分と減ってしまった。それはつまり僕の未来に対する話が減ってしまったということだ。

そんなやりとりをとっくに忘れて日々の生活を送っていたが、このコロナかの中で、両親と会う機会もめっきり減ってしまった。もともと足繁く通っていたわけでもないし、なにかしら理由がないと会いに行くのも気恥ずかしい。そんな調子だからあったとしても短時間だけであったりしたのだが、先日、久々に少し時間をとることができた。

茶店に入ってお茶を飲みながら近況報告をしていると、私が最近始めた将棋の話になった。趣味として、ぼちぼち楽しんでいる私に対して、父はやはり「藤井くんみたいになるには、少し遅いな」とつぶやいた。

ああ、父にとっても僕はもう少し遅い存在になってしまったのだという寂しさと、少しどころか全然遅いのにまだ少し、夢を持ってくれている父に対して、なんとも言えない感情が湧いた。僕に対して、手放しで夢を見てくれる人がいて、それがあともう10年もすればいなくなってしまうのだ、という事実がとても悲しい。

 

【読書+将棋】獄門島と将棋ウォーズの状況【ネタバレあり】

横溝正史の獄門島を読了。3人の娘が殺される様が雰囲気あってとても美しい。物語の最後にも出てくる、封建的、あまりに封建的な、という章名が表わす通りの事件で、部外者がとやかくいう問題ではない気がするね。生き死にが今よりも切羽詰まったような状況だと、知恵遅れの三姉妹よりも島の運営を優先する方が理屈が立つ、というのも理解できる。

犯人3人組に社会的な制裁がくわえられないこと、計画者は既に死んでいること、計画者を生前苦しめた人たちにも別に何も起きないこと、金田一が来島したこと自体が事件のきっかけになっていること、事件のきっかけの一つが誤報であること、被害者は死んでしまってもまあ仕方がないと島の者からも思われていること、生活がかかっていること、事件に対しては身内の話で他人がとやかく言うもんじゃない、という理屈が働いてしまうことなど、誰が悪いというわけじゃないけど一旦事件が動き出してしまえば歯止めが効かない構図になっているのが面白い。トリックやアリバイなどの理屈の部分はそれほどの目新しさはないが、横溝正史の面白さは舞台設定の華やかさ、その語り口の、盛り上げ方が上手なところにあると思う。

根本的なところで言うと、閉鎖的な島の中で、島のみなの生活を支えていた主人が死んで、みなの生活にやや陰りが見られるところ、これを維持するための殺人という理屈に対してはなかなか反対ができないのだと思う。この理屈だけで行くと見立てをする意味があるのかは疑問。バレる可能性も出てくるので、みんなのため、というよりは計画者の意思に背けなかった、ということだろう。3種の独立した殺人と言いながらも共通の目的のために行うのならば、それは連続じゃないの?という気もするが、見せ方というか勢いで誤魔化されてしまう。そう、理屈だけで考え出すいろいろとあらはあるのだが、この作品は物語のとてつもない魅力で、細かいことはいいんだよ!と納得させるだけの力を持っている。

前回の記事の時に、読んでいると夏の風景が思い出される、としたが読み終えてみると思いっきり秋と明示されていた。しかもこのことが金田一を悩ますことになる名台詞「きちがいじゃが仕方がない」につながるなんて、奇妙な符合に少々おどろく。

是非一読してほしいが、今や映像作品の方が楽しそうな気もするね。

 

将棋ウォーズについて。4級になってから勝てない!勝率は4割5分前後。どうももう一皮剥けないといけないと思うのだが、中盤の動きがいまいち?この辺りは手筋を覚えないといけないのかなあ。詰み将棋については後半ぼろぼろと駒が入ってくると逆転できるのだが、中盤が打ち合いにならないとなすすべなく押し切られる展開が多く、フラストレーション。接戦をものにするという感じがあまりしないのよね。相手の隙をついて刺す、というような指し方になっているので中盤力の強化が課題だなあ。うむむ。

【読書】獄門島【途中経過】

横溝正史の獄門島を読んでいるところ。最近のドラマで「わたしたちはどうかしている」という横浜流星が主演のドラマが放送されているが、旧家(ドラマでは和菓子屋)の行く末、旧家特有の因習、一癖も二癖もある登場人物で、ちょうど読んでいるこの作品が連想された。こういった雰囲気のドラマは好きなんだけど、どうも横浜流星演じる主人公が実力不足、半人前扱いされていて、本人はそれに反抗するでもなく、何か言われれば無言、他の者(例えば女主人公)に代弁させて、するっと切り抜けるのだけど、そのあとなんかかっこつけて計算でした、という感じで、それがどうもすごくダサく感じるのだけど、こういうのは一生懸命見たらその時点で負けなんですかね。

さて結構な脱線をしてしまったが、獄門島である。瀬戸内海に浮かぶ島(獄門島)に向かう金田一耕助。戦争中に出会った友人の最後を伝えるために訪れた島で、田舎ではお目にかかれ無いような美女たちに出会って少々びっくり。散髪屋のおっさんに鼻毛伸ばしてたらだめだよ、という忠告を受けながら、島の主である鬼頭家との関わりを深くしていく。

読み始めてどうも夏っぽいなあと思ったが瀬戸内海の気候と散髪のシーンからかな。実際の時刻はどんなもんなんでしょうね。第一の事件のとき、確か6時半頃外に出たら暗くなってきているという描写もあったから、真夏だとまだそんなに暗くない?どれぐらいの時期か、もう一度あらためてみよう。

さて第一の事件であるが、これまた雰囲気たっぷり。姿は見えず松明の光だけで行動がある程度見えるが、それが本当にその本人かは定かじゃないような描写で、これは入れ替わりだのがあるのか、というふうに見ている。ここから物語は加速していくのだろうが、非常に楽しみ。

と、その後続きを読んだ。第二の殺人のところまで。また釣鐘という日本独自のものを使った現場は非常に魅力的で、盛り上げ方がうまいなあ。このとき金田一は留置所に捕らえられていたことからあとで話を聞くことになってるんだけど、ことが終わってから参戦する様子に、探偵というよりも解説者がふさわしい気がするな。

このあと、第3の殺人と意外な犯人、そしてどんでん返しがあって真相がわかるというような流れなんだろうが、できたら今日中に読み終えてしまいたいと思う。

連休もあっという間に折り返しを過ぎて残り3日と半日程度。心安らかに過ごせるのもあと少し。後悔しないように飲みすぎに気をつけて過ごしたいと思う。と言っても時期をずらしてまたすぐ休みを取るのでそこまで焦らないんだけどね。

今日はあと筋トレ、プロゲートをやって詰め将棋でもやるかな。いつも思うけど、中学生みたいな生活で幸せだわ。夏休みももうちょっとかー。最後にまたなんか楽しいことしたいね。花火とか?場所が制限されるけどなあ。