孤島の鬼

日々の備忘録。文章表現、感情表現の練習の場です。更新はなるべく毎日・・・

脳みそ活性化

先日からとにかく書いている。頭に浮かんだ言葉をいったん文字に落として、客観的にみると言葉足らずな部分が見えてくる。これを補足していくことでいわゆる論理的な文章になるのだろうなという、予感がある。

そんな効果を期待して始めたブログだが、タイピングの観点からも自分のストレス発散的な観点からも非常に良さそうに思える。前回更新が止まってしまったのはネガティブなことを吐き出してしまっていたからだろう。ストレス管理がメインになっていたように思う。

さて、ブログを書くことをメインにブログを始めたが、ここにきて多少の余裕が出てきたのか、読むことにも興味がわいてきた。書籍から情報を得ることがメインの自分だが、今の時代ブログからも得てもいいんじゃない?とようやく今どきな発想になってきたのだ。しかし、これまでそれをしなかった理由として、基本的に素人が書いた記事であるため、感想ベース、エビデンスに乏しいのではないか、ということと、使えそうな記事があっても引用がしにくい。それは前者の理由からだ。それソースどこ?という質問に対して、答えられない。いや、答えればよいのだろうが、はてなブログです。とはなかなか言えない。ましてや上司ははてなブログ?それはなんぞや、みたいなことになってしまうともう面倒くさすぎて死んでしまう。そういったことで書籍からの情報をもとに理屈を組み立てたりするのだが、これはこれで誰が書いたのか、ということが問題になりやすい。もっとみんな中身を見てよ!誰が書いたかなんて正直どうでもいい!と思ってしまう。

その昔、中崎タツヤのじみへんという漫画の中で、今の政治を熱く語る若者が、もう一人の若者に、みんなっていうけど、それ誰が言ってるの?と突っ込まれ、思わず面倒くさくなってしまい、近所のパン屋のおやじだよ!と返してしまい、お前は近所のパン屋のおやじが言っていることにそんなに真剣になってるのか、と気をそがれてしまう話があって今でもよく覚えている。

自分は語られるべき内容こそ重視すべき、という考えの持ち主だが、世間ではそれよりも誰が語ったかが重要と思う人が実に多い。

人がどう考えようが知ったことではないが、ではなぜ自分は内容のほうが大事だと思うのか。おそらく漫画や小説、作られた物語が好きだからだと思う。

というのも、物語を語るうえで、作者と作品を混同してはいけない、切り離して考えなければならない、基本は、という考えを持ているからだ。

もちろん作者の意向が作品に反映されている物語は数多く存在していると思うが、例えば推理小説の作者は人殺しをしたくてしたくてたまらない、という人ではない。そこでは論理的な美しさを伝えるために殺人をモチーフにしているのかもしれないし、本当に伝えたいことはなんなのか、考えてみることが大事だ。語る人が悪意を持った瞬間、好きなようにもてあそばれてしまう、そんな恐怖感を自分は持っているのかもしれない。

 

ほかの人のブログを見ていると、うまく段組み、見出しを付けているなあ。どうやったらいいんだろう。ちょっとずつ調べてみるか。